どうぞ、と促されて入った執務室は、今までの部屋に比べればこじんまりとしていた。
埋め込み型の本棚が並び、合間合間に写真が飾られている。
「こちらには喜市様のお写真と、当時の日常的な情景を撮影された物が展示してあります」
向こうで撮ったのであろう風景写真の間に、香坂喜市の写真が有った。資料で見た物と同じだ。
「ねぇ夏美さん、ひいおばあさんの写真は?」
ボウズが夏美さんに尋ねる声を聞いて、オレは顔を上げた。
「それがね、一枚もないの。だから私、曾祖母の顔は知らないんだ…」
笑みに苦い物を混ぜながら、夏美さんがそう穏やかに言った。
写真がない、か。
それはそうかもしれない。
『此の目はね、母マリアが此処で生きていた、その証なのよ……』
彼女が、夏美さんの祖母が言っていたことを思い出す。
もしも『マリア』があのマリアなら、写真は無いんじゃなくて、残せなかったのだろう。
彼女の顔を、残すわけにはいかなかったんだ。
「おい、この男…ラスプーチンじゃねーか!?」
乾の叫びに、思考が切り離された。
後ろからセルゲイが覗き込み、頷いた。
「ええ、彼に間違いありません。ゲー・ラスプーチンとサインもありますからね…」
「ねぇお父さん、ラスプーチンって?」
「い、いや、オレも世紀の大悪党だったってことくらいしか…」
娘の問いに、目線をふらふらっと彷徨わせながら毛利がそう言った。
このオッサン、ホンット知識ねーな…。
だが、このオッサンの言葉には、誰かが敏感に反応を示した。本当に些細な物だったし、どうやらボウズさえ気付かなかったから間違いかとはオレも思った。
オレは話を聞くフリをして、彼女を視界に入れた。彼女の目は真っ直ぐに毛利を見つめ、話を聞いているのだと言う姿勢をあくまで崩してはいなかった。だが、その目の奥に、誰もが気付かないだろう感情が揺れ動いているのが…オレにはハッキリ解る。
それは、怒りと言う感情だった。
「ヤツはな、怪僧ラスプーチンと呼ばれ、皇帝一家に取り入って、ロマノフ王朝滅亡の原因を作った男だ」
彼女の怒りは誰にも気付かれぬまま、そっと奥まで仕舞われた。
乾も気付かず話を進める。
「一時、権勢を欲しいままにしたが、最後は皇帝の親戚筋に当たるユスポフ侯爵に殺害されたんだ。川から発見された遺体は頭蓋骨が陥没し、片方の目が…潰れていたそうだぜ」
片目が……。もしかしてオレは、だからこそ助かった、ってワケ?
でも、そんな話をしている場合じゃない。
「乾さん、今はラスプーチンよりもう一つのエッグです」
オレは穏やかにそう言ってみせた。
火を点け、吸い込んだ煙を吐き出した毛利は、こちらを向いて口を開いた。
「そうは言ってもなァ…こんな広い家の中から、どーやって探しゃいいんだ?」
彼にしては珍しく的を得た言葉だった。確かに、この城は広すぎる。どうにも検討が付かない。
さて、と目を落とすと、ボウズが床を見た後、「おじさん、ちょっと貸してっ!」と毛利のタバコに飛びかかった。
「コ、コラッ!」
「下から風が来てる!この下に、秘密の地下室があるんだよ!」
「何っ!?」
全員が一斉に彼の動作に注目した。ボウズは煙の流れでそれを確かめると、蘭さんの持って来た灰皿でタバコをもみ消しながら呟いた。
「とすると…からくり好きの喜市さんの事だから……」
床に這い、そうっと木目をなぞる。
「きっとどこかにスイッチが有る筈……ん?何だ?」
ボウズの指が、床の隅に掛かった。引っかけるように持ち上げると、パカリと床がめくれた。
「それは!」
「ロシア語のアルファベット…」
其処には、喜市さんが作ったと思われるロシア語のキーボードが有った。三十五の文字を刻んだ丸いキーが整然と並び、一番上にそれとは違う大きな四角いボタンが付いていた。
「それで秘密の地下室のドアが開くのか!?」
「…パスワードがあると思うよ。セルゲイさん、ロシア語で押してみて!」
「ああ…」
もう、この場は完全にボウズが仕切っていた。セルゲイも大人しく指示に従い、キーの前にうずくまる。
「思い出…ボスポミナーニェに間違いない!」
毛利が意気込んでそう言った。
ボスポミナーニェはメモリーズエッグの名称だ。有り得るキーワードではある。
「ВОСПОМИНАНИЕ...」
…反応は無い。
「アレ?」
ハズレじゃねぇか、このヘボ探偵っ!
「じゃあ、キイチ・コーサカだ!」
「КИИЦИ・КОСАКА...」
「…何も起きねぇぞ」
毛利親子はキョロキョロと床を見回していた。
部屋は無音だった。パスワードが違うと、まるきり反応しないらしい。
「夏美さん、何か伝え聞いている言葉はありませんか?」
「いいえ、何も…」
床を見回しながら答えた夏美さんの前で、ボウズがぼそりと小さく呟いた。
「バルシェ、ニクカッタベカ…」
「え?」
「夏美さんの言ってたあの言葉、ロシア語かもしれないよ!」
何かの確信があるらしく、ボウズは堂々と言った。
「おい、何の話だ」
「しーっ、黙って!」
尋ねた毛利に、蘭さんは鋭く返した。
さっきの灰皿と言い…鋭くも鈍いねぇ、名探偵クン。
「夏美さん、バルシェ…なんですか?」
「ニクカッタベカ」
「バルシェ、ニクカッタベカ…」
「もしかしたら、切るところが違うのかも」
呆然と繰り返してセルゲイに、ボウズがそう助言する。
「バルシェニ、クカッタ、ベカ…んー、バルシェニ…」
「それって、もしかしてヴァルシェーブニックカンツァーベカじゃないかしら」
頭を抱えたセルゲイに言ってのけたのは、青蘭さんだった。
「そうか、ВОЛШЕЪНИК КОНЦА ВЕКАだ!」
「それってどういう意味!?」
納得したセルゲイを振り返り、ボウズが慌てた口調で尋ねる。
「英語だとThe Last Wizard Of The Century... えーと、日本語では…」
それ、って……。
「…世紀末の魔術師!」
「…え?」
「世紀末の魔術師?どっかで聞いたような…」
「キッドの予告状よ!」
「そうだ!こりゃとんだ偶然だな…」
蘭さんの指摘に、毛利が素っ頓狂な答えを返した。
まさか…それがパスワードとはね。そっちの方がとんだ偶然だ、だよ。元々は、このボウズを引っ掛ける為だけに書いた言葉だったのに。
「とにかく、押してみましょう!ВОЛШЕЪНИК КОНЦАВЕКА...」
セルゲイさんが最後のАを押すのと同時に、壁の奥から深い律動的な音が響き始めた。
「な、何だこの音!」
「おおっ!」
それは、凄まじい仕掛けだった。ボウズの立っていた床が、鳴音と共に開き始めたのだ。
沢部が慌てた様子で近寄り、覗き込む。
「こんな仕掛けが…」
きっと、香坂喜市の死後、五十年以上に渡って開かれて居なかったのだろう。つもり積もった埃がゆらりと立ち上り、崩れた壁や埃がパラパラと音を立てて落ちていった。
秘密の地下室の扉が今、開いたのだ。
「でかしたぞ、ボウズ!」
ボウズは小さく、だが自信ありげに笑った。
探偵は謎を解く事を愛する生き物だとオレは思っていた。このボウズも、間違いなくそうらしい。きっと、ヤツの中の「探偵の血」とか言う物が、沸き立っているのだろう。
「さ、行こう!」
乾が待ちきれない、と言った様子でそう言った。どうやら、誰しもがウズウズとしているらしい。まともな子供は此処には居ないが、こういった事はやはり大人も大好きらしい。
一番入り口に近かったボウズが踏み込もうとしたのを見て、オレはそれを手で制した。
「…白鳥刑事?」
不思議そうにこちらを眺めるボウズを見ながら、オレはドラムバックから懐中電灯を取り出した。
「私が最初に入ります。暗いですし、何があるか解りませんから…」
そう言って、笑って見せた。
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