ビルの回りに吹く風は、気まぐれで荒々しい。
時には人の大事な物を攫い、時には男の目を楽しませ、あるいは女の髪を撫で付ける。人が生み出しながらも決して人の手には負えない人工的な「自然」……それがビル風だ。
決して読むことの出来ぬその風の中に、俺は翼を広げて飛び込んだ。
確かに理想は軽い向かい風なんだろうが、俺には追い風だろうが横殴りの風だろうが関係なかった。
このハンググライダーを使い初めた頃は、なかなか風の機嫌を取ることが出来なかった。理想的な向かい風でなければ空を散歩することすら出来ない。自由にやりたいが為に、気まぐれな風がお気に召す様なグライダーにするべく改良を重ねて行く内、あたかも風と話すかの様に飛ぶ事が出来たのだ。
もちろん、向かい風である事が一番飛びやすいという事実に、代わりはないのだが…。
でも、俺だって超人じゃない。延々と空に居ると、このまま地上に戻れなくなるんじゃないか、という不安に襲われることがある。
空に居るのが怖いんじゃない。空から離れるのが怖いんだ。
米花町に差し掛かると、俺は適当なマンションを選んで、誰かの家のベランダにそっと降り立った。
たまに空から離れておかなければ、いつか空から離れられなくなってしまうだろう。…それが恐くて、俺はこうして羽根を休めては飛び続ける。
それに、このまま飛び続けてあの街に入ってしまうのが怖かった。
ベランダの柵に立ち、目映く輝いている街を見つめる。
あんな街を―――人は「不夜城」と呼ぶのだろうか。
人は闇を恐れる事を忘れ、闇に安らぎ眠る事をも忘れた。空に星があるのを忘れ、土に生き物が居ることを忘れた。
結果、グレーに塗り潰された街に明かりが灯る。空の星より、多過ぎる程。
バベルの塔の様に空高くビルは伸び、その麓には星が輝く。足元に輝く人工の星空……それは禍々しい程に美しい。
明かりの数だけドラマがある…って台詞もあったっけ、そう言えば。
あの明かりの数だけ人が居て、人の数だけドラマがある。ドラマだけじゃない、愛も、恋も、欲望も…あれは人の全て。
その明かりの一つが、俺…か。
怪盗キッド。夜に巣くう魔物。月の下に現れ、獲物を掠め取る。
何より陽の光が似合わない、月下の奇術師。
…魔物って表現が、「怪盗キッド」には似合っているのかもしれねーな。
俺は今日の獲物を月に翳し、独り言ちた。
パンドラを見つける為には月が要る。月は夜の生き物…決して、陽の元では輝かない。
俺の前で月が微笑う。慈しむかのように…あざ笑うかのように…。
オヤジ……アンタは一体、何がしたかったんだ…?
カラリ、と後ろで窓の開く音がした。
しまった。住人が起きたか…?
「…あなた誰?」
幼い少女の声。顔半分で振り返り、モノクルを通して住人を見る。
…小学生かな?警戒心のない不思議そうな顔をした、幼い少女。
「ドラキュラさん?」
思わず笑みが漏れる。
陽の光に弱い夜の住人…吸血鬼。その中でも有名な伯爵・ドラキュラ。
映画でもやってた、かな?
「いや…」
ま、そんなことどうでもいいか。
俺は振り向いて、彼女の前にふわりと降り立った。出来るだけ優雅に、限りなく軽く。
夜の住人「怪盗キッド」の名に恥じぬように。
足を折って目線を合わせ、呆然としている幼い少女の右手を取りながら俺は言った。
「飛び続けるのに疲れて羽根を休めていた…ただの魔法使いですよ、お嬢さん?」
手の甲に口付けを落とし、軽くウインクして見せる。
そう、魔法使い……それでいい。
幼い少女へのおとぎ話としては、これで充分。
目の前の少女の顔は、さっと朱に染まる。おや…と思った瞬間、後ろからサーチライトに照らされた。
バラバラバラと言う無粋な音が、闇の造った静寂を掻き消す。
少女から手を離して立ち上がり、全てを曝せと言わんばかりの光を片手で遮った。ヘリコプターの風に煽られてマントが翻るのを、俺は肩で感じていた。
ゆっくりとベランダの縁に近寄ると、地上で中森警部が叫んでいるのが見える。どうやら、捕まえろと地上から派手に指示を出しているらしい。
やれやれ…ゆっくり休む暇もない。
風はマントを引っ張りながら、飛べ、飛べと俺を煽る。この風は、ヘリコプターが生み出した風…ハンググライダーで飛ぶには適さない。…本来なら、の話だが。
「じゃあな」
俺は手すりに飛び乗ると、後ろで呆然と見ているだろう少女に向かって口を開いた。
モノクルを通しても飛び込んでくる光の粒子をシルクハットで遮って、言葉を続ける。
「お嬢さん」
そのまま、勢いを付けて飛び降りた。内ポケットのスイッチを押してやれば、風に負けて靡いていた白のマントが瞬く間に広がり、俺の身体を叩き続ける風を、その身で一身に受ける羽根へと変わった。
巻き上がる荒々しい風を孕み、滑るように俺は不夜城を目指した。
キッドの棲む、魔物の巣へ………。
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