あと少しで日付が変わる。
時計の振り子が時を刻むその音が今夜はやけに響いて聞こえる。
3月の最後の日が終わろうとしている。
そうしてあたらしい月がはじまるのをあたしはじっと息をこらして待っていた。
いまでは見慣れたキールの部屋。
分厚い書物で埋め尽くされ、書き散らかされたメモが床をまばらに覆っている
その部屋で、はじめは存在すら気がつかなかったベッドにあたしはいた。
キールの腕に抱かれたまま、あたしたちは横たわってる。
丸い時計盤のてっぺんに長い針と短い針が近づいてゆくたびからだがこわばっていくあたしに、キールは黙って抱く腕を強めた。
退屈なHRから開放されて、明日から春休みという浮かれた気分であたしは学校の門を出た。そこまでは覚えてる。
唐突にというか迷惑にも魔法実験の失敗であたしはワーランドという世界のクライン王国に召喚されてしまった。
その実験の責任者がキールだった。
成り行き上あたしの世話役になってしまったキールだったけど、口の悪いキールの不器用なやさしさに、あたしはいつしかどうしようもなく惹かれていった。
そして半年ほど後の帰還実験当日――――
あたしを帰すために研究を続けて完成した魔法陣は同僚の魔導師の妨害にあって無効になり、結局帰還魔法は振り出しに戻ってしまった。
あたしはキールがその魔法陣のためにどれほどの時間と労力を尽くしてくれたか知ってた。
すまなそうにして、また作り直しだと呟いたキールにあたしはもう一度やれということができなかった。
そのためにキールが消耗するのにあたしは耐えられなかった。
そしてなによりも望郷よりも強いキールへの想いがあたしをこの地へ繋ぎ止めているのを知ってしまったのだから。
そしてある仲秋の夜。
あたしの恋は芽吹いた。
キールもあたしが帰らないという言葉を待っていてくれたから。
帰らない、帰さないという愛にも似た言葉を抱いてあたしたちは手を取り合った。繋がれたこの手がある限りきっと大丈夫――そう瞳を交わしあって。
それからあたしはクラインに永住するための手続きや魔導師試験の勉強に追われて忙しい日々を過ごした。
そうして再び桜が咲く季節を迎え、まちが薄紅に染まる頃。
忙しさに紛れて、頭の隅にやってしまっていた現実がやってくる。
あたしがこの世界へ召喚された3月の最後の日をもって、1年前の魔法の痕跡は失われる。
それはあたしのもといた世界とこのワーランドをつないだ魔法の残滓が消え、ほんとうに帰る手段をなくしてしまうということだ。
キールが行おうとしていた帰還魔法は、1年前あたしを呼んだ実験でかろうじてふたつの世界をつないでいる魔法の痕跡を辿るものだったのだから。
刻々と4の月が近づいてくる。
最後の一周を秒針が刻み始め、その時が死神の足音みたいに忍び寄ってくる。
この1年、魔法の勉強をしてきたせいかあたしにもその消えゆく魔法の残滓を感じ取れる。それは目を閉じていても太陽が沈んで夜が来るのをわかるように、いままであたしをとりまいていた何かが風のようにすり抜けていくのを感じて、あたしはいっそう強くキールにしがみついた。
帰れなくなる事に恐れているのか、キールがあたしを最後の最後で手放す事に恐れているのか。
得体の知れない恐れを胸に、あたしはただ嵐が過ぎ去るのを震えながら待った。
ポーン ポーン ポーン ・・・・・・・・・
午前零時を知らせる音にはっとあたしたちは顔を見合わせた。
そしてお互いになにかほっとしたようなものを見つけて、なんだか可笑しくなった。
「・・・・・おまえがやっぱり帰る、なんて言い出すんじゃないかと
冷や冷やしたぜ」
冗談めかした口調だったけどキールの眼差しはまっすぐで熱くて、眩しかった。
「キールこそ・・・」
そのあとを続けようとしたあたしの口唇はキスでふさがれてしまった。
いつのまにかキールに押し倒されたかたちになって何度も熱い口唇が押しあてられる。長い長いキスの合間にキールは掠れた声であたしにささやいた。
「もう・・帰さない・・・・・・」
あたしはキールに翻弄されて短く吐息を返すだけ。
いまは故郷が記憶にしか存在しなくなるという事の寂しさも断絶感も、
ほんとの意味ではあたしは理解していないのだろう。
いつかその想いにあたしが気づくときも、この腕があたしを包んでくれる。
このぬくもりがあたしの帰るところになる。
それこそがきっとあたしのかけがえのないものになる。
そう確信して瞳を閉じた。
時計はやさしい時間を刻みはじめていた。
|