クラインを出てから、もう何年になるだろう。
初めてワーランドの地を踏んだのは、十六の時だった。
尊敬と畏怖の念を込めて「異界魔導士」と呼ばれる彼女は、国から国、村から村へもう何年にもわたる長い旅を続けていた。
各地にあるアンヘルの村を訪ね、創造魔法や女神エーベの伝説を聞き、もう誰も読めるもののいない古文書を読み漁った。死滅した文字を読めるものは、異界魔導士である彼女だけである。
その文字は、彼女の生まれ故郷である「日本」の文字に良く似ていて―――と言うより、そのものだった―――、古代文明で使われたのだろう創造魔法に付いて、数々の情報が書いてあった。
そして彼女は、現在唯一の創造魔法士となった。
ほぼすべてのアンヘル村を訪ね歩き、用は済んだはずだった。
それでも彼女は行ってない村が無いかと捜し歩いている。
帰らなくてもすむ理由を探して。
事の起こりは、恋人の浮気が原因だった。
もともとプレイボーイで通っていた彼の事である。いつかはそんなことも起こるだろうと思っていた。
が、それが自分の親友だと言うのなら話しは別だ。
確かに彼女は可愛かった。第二王女と言う事からか、それとも甘やかされて育ったからか…いや、きっと天性のものなのだろう。ほんわりとしたその可愛さは、自分にはないものだった。
かと言って、それが許せるはずも無い。
それに、彼が真剣に彼女を愛しているのがわかった。
だからこそ、旅に出たのだ。
自分がこの世界に来たときに保護者となった青年が引き止めてくれたが、それも振り切って出てきた。彼女が旅に出ると知っていたものは、彼のほかにはアンヘル族の騎士のみである。
そして、彼女はまだ、こうして旅をしている。
風の噂に、子供が産まれたと聞いた。幸せに暮らしているらしい事も。
今はもう未練がない。まったくないと言えば嘘になるのだろうが、少なくとも愛していると言い切るほどの未練が、彼女の中には残っていなかった。
今は保護者であった緋色の魔導士を想うばかり。
異世界から来た自分を元の世界に戻す為、自らの研究を犠牲にしてくれていたのだから、申し訳のなさも一層募る。
通り道の村で噂を聞き、山間の村に来た。
話によれば、ここには昔、アンヘル族がいたらしい。
どうなったのかは良く分からないが、だが、なんらかの痕跡は残っているかもしれない。
期待を胸に抱いて彼女がその村に着いたのは、すでに日の傾く夕暮れであった。
「残念だったわね、この村には宿はないのよ」
通りかかった婦人に尋ねると、そんな答えが返ってきた。
彼女ががっくりと肩を落とすと、婦人は困ったようにこう言った。
「宿のある村にはここから半日かかるし……あなたさえよければ、私の家に招きたいんだけど、いいかしら?」
「ええ、是非!」
彼女がにっこりとそう答えると、婦人は胸を撫で下ろした。
「よかったわ。魔導士さんでしょう?」
「ええ」
「その杖を見てすぐに分かったわ。今日は私の下の息子が帰ってくるのだけれど、私の息子も魔導士なのよ。話が合えばいいのだけれど」
「お気遣い、感謝します」
彼女は婦人と話をしながら彼女の家に向かった。
婦人の家はこじんまりとした赤い屋根の家で、どことなく御伽話に出てくるような雰囲気を持っていた。
今に行くと、すでに煮えていたらしいシチューの良いにおいがした。
婦人は「息子が牛乳嫌いだから、それを直してやるために、帰ってくるたびに作るのよ」と可愛らしく話してくれて、それを聞いて彼女は自分の保護者であった青年を思い出した。
食事をしながら、なぜか彼女は自分の生い立ちからこうして旅をするまでの長い話を婦人に話していた。
聞き終わった後、婦人は言った。
「その恋が本当に終わったと思うなら、いつかその夫婦に祝福をしてあげると良いわ。心の底から喜んであげられるのなら、そうしてあげなさい。でも、未だしこりが有るのだと言うのであれば、本当に終わったと思うまで待ちなさい。中途半端に会って祝福しても、心のしこりは消えないわ」
彼女は何も言い返さなかった。そのとおりだと思ったからだ。
「そして、その恋が終わったというのなら、自分を開放してあげなさい」
「………開放?」
ここで彼女ははじめて聞き返した。
「ええ、そうよ」
婦人は動じる事無く言葉を返し、再び続けた。
「恋に囚われていた心を開放して、次の恋に出会う為の準備をなさい。開放さえすれば、恋も愛も、貴女のすぐ側に有ると気付くはずよ」
「すぐ、側に……」
婦人は立ち上がると、鍋を覗き込んだ。
「遅いわねぇ。シチューが冷めてしまうわ」
そう言ったのとほぼ同時に、玄関で音がした。彼女には誰が帰ってきたのか分からなかったが、婦人には流石に分かったらしい。
婦人は玄関に向かうと、朗らかに「お帰りなさい」と言った。
その直後に聞こえてきた声は、彼女を驚愕させるには十分だった。
なぜ気付かなかったのだろう、と彼女は自分を戒めた。
婦人の髪の色。瞳の色。言葉の端々に見られる言い回し。その雰囲気。
何もかも息子が誰であるのか、いつもならすぐに分かるだろうに。
それでも、他人の空似であるという可能性を信じ、彼女は婦人の息子を迎える為に立ち上がった。
玄関先で、「客?魔導士の?」と言う、息子の声が聞こえる。
その言葉だけで、彼女の胸に感情の嵐が押し寄せた。
恐怖。感動。不安。懐かしみ。逃げ出したい。会いたい。会いたくない。愛しい。
愛しい。
そして、彼女の心は混乱した。
いったいどっちなのだ、と。
真実が二つあり、そのどちらも真実である。
その事に、彼女は未だ気付いていなかった。
やがて、玄関に続く扉が開いた。
中に入ってきた彼は、彼女と同じように驚愕した。
「あら、お知り合い?」
婦人の声だけが穏やかである。
彼は、しばらく茫然とした後、苦しげに彼女の名前を呟いた。
旅に出てから呼ばれる事の無かった、彼女の名を。
彼女も、しばらく茫然とした後、辛そうな顔で彼の名を呼んだ。
この数年、口にさえ出さなかった彼の名を。
「お前、どうして………」
じりじりと交代し、戸口から逃げようとする彼女の二の腕を、婦人が掴んだ。
振り返る彼女に、婦人はにっこりと笑って言った。
「今日はもう遅いわ。外に出て旅を続けるのは明日になさい。
私の息子を知っているのでしょう?積もる話も有りましょう。二階の部屋でゆっくりと休みなさいな」
婦人は優しく、しかし逆らえぬような口調で笑いながらそう言った。
彼女は諦めて、逃げるのを止めた。
二階に上がると、穏やかな匂いのする暖かな客室が用意されていた。が、彼女がそこで休息を取る前に、彼によって別の部屋に連れて行かれた。
「何で逃げるんだ」
彼は彼女を椅子に座らせると、自分はベッドに腰掛けてそう言った。
彼女には、彼の視線が痛かった。
「……こわ、かったの」
「何が?」
「私を知る人に会うのが」
彼女は俯いてそう言った。彼女が俯くと、その長い髪に顔が隠れてしまう。
彼は強引に顔を上げさせると、強い眼で彼女を見た。
「仕方ないって。しょうがないって諦めたはずだったの。でも、自分の中ではちっとも仕方ないなんて思ってない。…そんな自分が、嫌だった」
彼は無言で彼女の告白を聞いた。
「風の便りに、子供が産まれたのも聞いたわ。良かったと思った。でも、私は逃げてしまったから、帰るのが、とても恐かった」
「……何から、逃げたんだ?」
彼は彼女を傷つけない様、細心の注意を払ってそう言った。
彼―――いや、彼らはずっと彼女を探していた。
クラインの国王も、その近衛騎士団長も、その騎士たちも、そして彼自身も彼女を友人として、または想い人として大事に思っていた。
だからこそ探した。自分に出来る限りの努力をし、出来る限り探したが、彼女の行方は一向に分かる事はなく、彼らは半分以上諦めていた。
彼女に戻る気が無いのであれば、仕方が無いと。
だが、その彼女も今は彼の目の前にいる。あんなに探した彼女が、今は目の前に。
逸る気持ちも焦る気持ちも押さえつけ、彼は出来るだけ優しい口調で話を促した。
「……シオンからも、ディアーナからも。殿下、シルフィス、レオニス、ガゼル、それから……ううん、全員から。クラインから。―――きっと、キールからも」
自らの名を呼ばれ、キールは顔を傾けた。彼女を覗き込むように。
「恐かったの。シオンやディアーナから謝られる事も、殿下やシルフィスや皆から慰められる事も、何も無かった様に暮らして行こうとしていた自分も、それに慣れてしまうって事も、みんなみんな恐かったの!!
だから、逃げた……誰も知らないところで、あたしがいる価値を見出したかったの。
あたし、シオンの為にここに残った。シオンが愛してくれるからこの国にいたはずだったのに、彼を失ったらどうすれば良いのか分からなかった。だから、どうすれば良いのか、それを探す為に旅に出たの。そうしたら逃げられるし、価値も見出せるし、一石二鳥だと思ったの……」
彼女は後半、泣きながらそう叫んでいた。
彼は彼女を引き寄せると、無意識に彼女の頭を抱え込んで優しく頭を撫でた。
昔、補助魔法を掛けていたときのように。
姿はすっかり大人の姿態になっていたが、彼の胸に縋って泣くその様は、十六歳の時と何ら変わりはなかった。
泣くだけ泣いて落ち着くと、彼女は照れくさそうに笑った。
「ごめんね、キール。あたし、心配ばっかかけて……」
「いいさ。この世界でお前の保護をしているのは俺なんだ。そんな気を使うな、お前らしくもない」
嫌みの一つも言えば、昔ならむっとした顔をして反論してきただろう。
だが、彼女は彼が知る、当時の彼女ではなかった。
「憎まれ口ね。あたしらしいって、どんなよ」
「無駄なまでに元気で、鉄砲弾で、人に心配も迷惑も掛けまくって、さながら台風みたいに動き回る。誰も止められない」
「ひどいなぁ」
クスクスと彼女は笑ってみせた。多少の嫌味には動じない様で、なんだか彼は気の抜けたような思いを感じた。
「でも、ありがとう。なんだか…すっきりした」
彼女が彼の首に手を回し、体を預ける様にしてそう言うと、彼の手は置き場がないと言わんばかりにうろうろとした。
「なにやってんのよ、キール」
彼女が諌めるようにそう言うと、キールはむっとした顔で彼女を引き離した。
「…俺だって、男だ。自分の部屋でこんなことされれば、理性がもたない」
あ、と彼女は初めて気付いたと言わんばかりに声を上げた。
「ごめん、忘れてた。……キールの奥さんにも、悪いよね」
「……妻はいない」
彼はぽつりと呟いた。え?と聞き返す彼女に、視線を逸らして彼は言った。
「結婚、してない。恋人もいない。俺は一人身だ」
「え、なんで?結婚しなかったの?」
彼女の驚いた声に、彼は居所なさそうに目を伏せ、ためらった後に言った。
「この六年間、幾度も告白をされた。貴族もいれば、商人の娘もいた。研究所の長老の娘もいたな。でも、俺は 誰の告白も受けなかった」
「うわ、勿体無いっ! なんで?」
言おうかどうしようか、と言う気配が彼女にも伝わってきた。焦れるほど迷った後、彼は彼女を引き寄せ、抱きしめた。
「き、キール?」
「……から、だ」
「…え?」
「お前がいたからだ、メイ。ずっと好きだったんだ。それに気付いたのは、情けない事にシオンとお前が正式に付き合い出した後の事だった。それから今日まで、ずっと、好きだったんだ」
彼女は茫然と彼の告白を聞いた。
「嘘」
「嘘じゃない」
「じゃ…なんで何も言わなかったの?あたしが旅に出る前……キールは何も言わなくって……ただ、止めた方が良いっていつもの口調で引き止めて……」
彼女の呆然とした呟きに、彼は彼女をベッドに押し付けて怒鳴りつけた。
「言えなかったんだ!お前の顔を見ると、まるで弱みに付け込む情けない男のようで、俺のプライドに掛けても言えなかった! 言えばお前はOKしたかもしれない。でも、シオン様を…いや、シオンを忘れられず、自分の恋を諦める事もできないお前に、何を言えって言うんだ!優しく慰めようが、叱り飛ばそうが、結局お前の瞳に映るのは、あいつだけだ……」
「キール……」
先程とは逆で、今度は彼女が彼を抱き締める番だった。涙を流さずに泣く彼の背を、彼女は優しく撫でた。
やがて彼は少し落ち着いた声で言葉を続けた。
「だから、待つ決心をしたんだ。お前が、シオンを忘れるまで。お前の瞳が、俺を映すようになるまで。待つ事にしたんだ。結局、六年もかかった」
彼は起き上がると、彼女を起こしてから自分の立て膝に額を乗せた。
「我ながら、情けなくて涙が出る。こんな情けない男だとは、知らなかった」
少し顔を上げて彼女を見ると、彼は小さな声で言った。
「六年前に言いたかった言葉を、今、言っても良いか?」
強いような、弱いような、不思議なまなざしに、彼女は素直に肯いていた。
「愛している。ずっと、側にいて欲しい。他の誰でもない、俺の側に」
「キール………」
彼女は彼を優しく抱き締め、耳元で肯定の返事を囁いた。
彼は、彼女を力強く抱き返し、唇を奪った。
「ごめんね、キール、ずっと、気付かな、くて……」
キスをしながら彼女はそう言い、彼はそれに優しい眼差しで答えた。
翌日、別の場所から来た二人は並んで同じ目的地へと目指した。
結局二人は眠る事も無く、この六年間の事を心行くまで話し合った。
彼女は、自らが調べ上げ、自らの力にした創造魔法の事を。
彼は、彼自身が発見し、確立した時空魔法と召喚魔法の事を。
お互い魔導士として、愛し合うものとして、話す事で長い6年の月日を埋めていった。
「ありがとうございました」
彼女は婦人に礼を言った。
「貴女が娘になるなら大歓迎よ。…また、遊びにきて頂戴ね」
「ええ、もちろん」
抱き合って別れの挨拶をした後、婦人は息子とも別れの挨拶をした。
「また、来るから」
「ええ、待ってるわ」
心を通じあわせ、やっと笑い和えた二人の若者を、婦人は暖かく、そして少し寂しそうな瞳で見つめた。
願わくば、もう泣く事も無く。
出来るならば、離れる事も無く。
幸せに、幸せに。
それが、母でもある婦人の、願いだった。
「ね、キール」
「ん?」
「クラインの王都に帰ったらさ、まず、シオンたちのところに挨拶に行こう」
「………」
「やっと吹っ切れたんだもん。おめでとうって、言いたいじゃない。
あたしの親友と、
あたしがかつて愛した人と。
その二人に、おめでとうって」
「…………そうだな」
二人は穏やかな笑顔で笑いあった。
「殿下にも挨拶に行こう。随分とお前の事を心配して下さったんだからな」
「うん!それからね、それから………」
道は続く。
どこまでも、太陽の光に照らされて。
かつて二つであったその道は、もう二度と、分かたれる事も無く。
それは、地平の向こうに消えるまで、ずっと遠くまで、続いていた。
|