「あんまり根を詰めると、体を壊しますよ、お嬢さん?」
自分専用の研究室だから他の人間がいるわけがない…筈なのだが、聞こえてきた声の主は毎回そうして気配もなく突然声を掛けてくる。
解毒剤研究の際、嫌と言うほど聞いていた声を耳にして、哀は目を見開いた後、溜息を付いた。
「自己管理くらい自分で出来ているわよ、どこかの探偵じゃあるまいし。それよりも、ノックくらい出来ないのかしら、不法侵入の怪盗さん?」
「邪魔しちゃ悪いかなと思って」
明るい口調で言われて、哀は些か拍子抜けした。
と言うよりも驚いたと言う方が正しいかも知れない。何しろ、彼のそんな口調は初めて聞いたのだから。
「別に…」
構わないわよ、と良いながら振り向いた瞬間、思わず―――哀にしては珍しく、硬直してしまった。言葉だってとぎれると言うものだ。
振り向いた先に居たのは、見慣れた白い衣装に身を包んだ気障な怪盗などではなく、隣の呆れた探偵に良く似た面差しをした、一人の青年だったからだ。
にこりと無邪気に笑った彼は、部屋の隅に座ったまま、大きく笑って言った。
「はっはぁ、驚いた?」
満足な顔は子供のそれそのものである。
彼の思惑通りに驚かされてしまった哀はと言えば、何となく呆れた表情を浮かべ、肩を落としてみせるだけだった。
「今日はね、挨拶。名探偵の家には良く遊びに行ってるけど、お隣に顔出ししてないなァって思い出して、遊びに来たんだよ。ほら、黒羽快斗です、ヨロシクねって、まだ言ってなかったでしょ?
名探偵にも西の探偵にも、あまつさえ名探偵の幼なじみにまで挨拶してるのに、オレってばこの格好でドクターの所にまだ顔出してなかったからさ。あっ、忘れたわけじゃないからね。ちょっとうっかりしてただけだから」
何が違うのだろうか、と哀は小さく笑った。
「追い出されでもしたの?」
簡単に予測して返した言葉は、どうやら彼に直撃したらしい。慌てたように快斗は言葉を言い募った。
「あ、いや、あのね。今日行ったら、いきなり鍵が掛かっててね。オレ合い鍵なんて持ってないし、そしたら入れないでしょ?」
「貴方は鍵を開けて入れるでしょう?」
皮肉ってみせると、彼は真面目にこう言った。
「不法侵入はあんまり宜しくないでショ」
「あら、貴方がそれを言うのかしら」
クスクスと笑ってみせると、快斗は少しふてくされたように言葉を続けた。
「…いーの!
そんで、しょーがないからピンポンを連打してみたわけ。そしたら不機嫌そーな名探偵が出てさ。いきなり帰れの一言よ?酷いと思わない?
仕方がないからまたもやピンポン連打してたら、今度は西の探偵が出てね。これまた不機嫌そーな声で、予告文の解読やってるって言うもんだから…さすがに入るの悪いじゃない。それでドクターのとこに。ね?
……って、やっぱりお邪魔?」
上目遣いに窺うような快斗を一瞥して、哀は再び小さく声を立てて笑った。
「別に構わないわ、丁度キリも良かったし。…座って、今コーヒーを入れるわ」
「アレ?ドクター機嫌いい?」
あっさり立ち上がってコーヒーメーカーへ向かった彼女に、快斗は首を竦めてそう聞いた。
自らコーヒーを入れてくれるばかりか、座れとはまた。
「いいから、此処座って」
「…あのー、ドクター?」
哀は全く気にも留めず、少々煮詰まったコーヒーを自分のカップに注ぎ、伏せたまま置いてあるもう一つのカップを起こしてそれにもコーヒーを注いだ。
合同研究時代の名残である。
「予告を出したんだったら、当然こういう状況になるとは考えていなかったの?」
「いつもなら解読作業してたって、不機嫌なだけで中に入れてくれるもん……あ、アリガト」
部屋の隅に座ったままの彼にカップを渡すと、快斗はアチアチと呟きながらコーヒーを啜った。
「あ、嬉しいな、洗っててくれたんだ」
「貴方が置きっぱなしにするものだから、余計な手間が掛かったわ。それよりも、早く此処に座ってくれると嬉しいのだけれど?」
「…あ、いや……どーしてオレはそこに座らされちゃうのかな?」
答えの代わりにフッと笑った哀の表情に答えを見つけた快斗は、うへぇと呟いてまた首を竦めた。
「頭脳労働しに来たんじゃないのにー」
「あら、良いじゃない。日頃、仕事の時以外はどうしようもない事にしか発揮してないんでしょう?」
「…どうしようもないことってのは、無くない?」
言われた通り、モニターの前に座りながら、彼は少し眉を下げた。
「あら、貴方の日常はどうしようもない事って言わないのかしら。ねえ、黒羽くん?」
ようやく名前を呼ばれ、快斗は肩を竦めた。
「言わないと思うけど…」
「…今の貴方、目の前の餌を食べたいけれど、餌を出した人間はどうにも信用できない……そんな顔でうろうろしている仔猫みたいよ。素直に信用してみれば良いのに」
「…餌に薬でも混ぜられてたら、お話に成らないじゃん」
「彼らがそんなことしないだろうって、既に解っているのに?解り得ている答えを既に手にしていて、それでも迷う貴方の日常は、どうしようもなく無いのかしら」
「…ドクターの意地悪」
小さくなった快斗は、少々拗ねたかのようにそっぽを向いて珈琲を啜った。
「そんで? 自殺因子の名を掲げた毒薬調べて、これ以上何をしようっての?解毒剤に関しては、一応の決着みたでしょ?」
「工藤君の行動を見ていて、本心からそう言ってるなら呆れる以外の行動を取れないわね。……貴方も知らないはず無いでしょう。あれは決着が付いた、とは言わないわ」
「…………」
沈黙後、ズッと珈琲を啜って快斗は哀を見つめた。
「ま、そうだけどね。戻った時を進めただけの話だし…解毒剤じゃないか。あれは老化剤ってとこだね。…なんだろう、Aging medicine?」
「さあ…もしかしたら、Senescence Toxin かもしれないわよ?」
「…だとしたら、名探偵って不幸。よっぽど毒に縁があるって事になるんじゃない?」
「そうかもしれないわね。どちらにしても、アポトキシンの解明が終わったわけじゃないもの。手伝うんでしょう、貴方も?」
「…もーいーって気がしなくもない」
なんだかんだと文句を言いつつも、快斗は画面に見入っていた。
未だに解読しきれてはいないAPTX4869。無論解毒剤も作られていない状態で「江戸川コナン」が「工藤新一」と成り得たのは、この彼の一言に寄るものである。
『強引に十年分、時を進めてしまえば良いのでは?』
当時の哀は、それを無茶だと即断した。科学は、魔法には成り得ないのだ。右から左にそう巧く行くのであれば、誰も研究などしようとはしないだろう。
だがその哀の答えにキッドは首を振り、必ず出来ると言い放った。事実、組織との攻防で忙しい中、彼は頻繁に哀の元を訪れ、哀を促して研究を進めた。
生まれたばかりのマウスが目の前で成熟し老死した様を見たときは、さすがの哀も体に震えが走ったものだ。 結局アポトキシンの解毒剤は完成せず、人体実験として立候補した「江戸川コナン」は海外へと引っ越していき、「工藤新一」が帰ってきた。
だがそれは完全ではなかった。新たな毒薬でないことは繰り返された実験により実証済みではあったが、人体に投与されたことで予想外の副作用が出たのである。
それは現在新一の抱えている、過食症とも呼べるような食生活の問題点に繋がっている。
「…マメに解析してるんだ。データ見るだけで一苦労じゃん」
「大した量でもないわよ」
「常人から見れば、充分大したことあると思うけど」
「あら、それは常人から見たらの話でしょう?」
言外に促され、快斗は三度目と肩を竦めた。
勢い良くデータの羅列をスクロールしながら、沈黙が下りた部屋の中、快斗はぽつりと呟いた。
「結局、人間ってエリクサーを求めずにはいられないのかな」
哀はと言えば、横で溜め込んでいた資料に目を通している。快斗が組織から奪ってきたその資料は、当時「宮野志保」であった哀が作ったものだ。記憶には在るものの、それは完璧ではなく、いわば欠けた記憶を補う為に目を通しているのだ。
その資料から目を上げることもなく、哀はさらりと言葉を返す。
「伝説の万能薬?不老不死を求めるのは、遠い昔から繰り返されてきた欲望の証じゃないかしら。自らという、自分自身にとって掛け替えのない意識を永遠に持続させたいと思う…いわば曲がった本能、と言うところかしらね」
「そこがおかしいよね。永遠に自分という意識を存続させて見ても、結局たどり着く先は無に帰すと言うただ一つの行為のみ。それが死とどれだけ違うのか…理解してんのかな」
「してないんじゃないかしら」
「…だろうね、やっぱり」
ペラリ。紙を繰る音が響く。
「死なんてさ、とどのつまりは其処に生命が発生した瞬間に決められた、いわば運命みたいなものでしょ。それを覆そうって言うのがそもそもの間違いなんじゃないかと思うんだけど」
「その理屈が本当だったとして、それをすんなり受け入れることが出来るのなら、人は此処まで死に抗おうとはしなかったんじゃないかしら?それでも死に抗おうとするのは、人が思考するからよ」
「言うなれば愛?」
小さく、哀が微笑う。
「貴方にも覚えのある感情じゃないの?」
瞬間的に、快斗は顔をしかめた。其れは普段彼が新一や平次の前で見せるイヤな顔や、青子の前で素直に見せる哀しい顔ではない。
脳裏に過ぎった、彼が最後に見た父親の笑顔が、喩え瞬間でも彼の仮面を剥いだ結果だった。
だが、其れは本当に瞬間の出来事だった。マスメディアに祭り上げられた現代のホームズが見たところで、気付いたかどうか危うい程度の「瞬間」だ。
「…ドクターの意地悪」
「その言葉、二度目ね」
「口癖になったりして…」
しゅん、といじけた態度を見せる快斗は、先ほどから見せる顔と全く変わりはない。キッドとして見せるその顔とは違うが、それが先ほど一瞬だけ見せた快斗の「素顔」と違うモノなのだと言うことを、哀は見抜いていたである。
いつの間にか空になったカップを下げてポットに近寄る途中で、不意に邪魔が入った。
「哀くん、いるかね?」
「博士?」
ノックのヌシは、哀にとって最愛の人―――或いは大切な家族と呼称しても構わない―――である、阿笠だった。
「居間に新一が来とるんじゃがの、もしかして快斗くんが此処にいないかと」
「あ、いるいる!」
ひょい、と手を挙げて答える。快斗のいる場所は、阿笠がいるドアからは多少死角となっている。声を挙げなければ、なかなかに気付けないだろう。
「名探偵、終わったんだ?」
「そのようだよ」
今行くって言って、と快斗が答えると、阿笠は笑顔で頷き、リビングへと戻っていった。
「ってわけでドクター、時間切れ。取り敢えず一通り目は通したから、何か意見を考えておくよ」
「ええ、そうしてくれると助かるわ」
んじゃ、とドアの所で手を振り、身を翻した快斗に向かって、哀は少し首を傾げた。
「ねぇ、黒羽くん?」
「ん?何?」
ノブを掴んだまま、笑顔で顔だけ振り返った彼に対し、彼女は小さく笑った。
「いつになったら、貴方はその呼称を改めるのかしら?」
「…………」
きょとん、と目を丸くした彼は、不意に、微笑った。少々物騒な笑みだった。
「さあ、いつだろうね」
「探偵さん達に突っ込まれないと良いわね」
「あ、見くびってるな」
クス、と小さく笑って、彼は部屋の中に言葉を投げかけ、リビングへと去っていった。
―――これでも、小さい頃から慣れてるんだよ、仮面を被るの
僅かに空いた隙間から、無邪気に騒ぐ快斗の声を聞き、哀は小さく苦笑いを浮かべた。
「慣れるモノでもないと思うけれど」
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