江戸川コナンが外国へと旅立ってから、もう半年が過ぎた。
彼が居なくなっても当然日本は動き続け、居候先であった「毛利探偵事務所」は、相変わらず暇な日を送っている。小五郎自身も、あの生活で何か得るものがあったのだろうか―――多少、単独でも探偵としての日々を送れているようだ。
娘の蘭はといえば、やはりそれなりに忙しい日々を送り、充実しているらしかった。部活や家事に精を出しつつも、時間を空けては煮物やらなにやらと料理を作り、少し離れた幼なじみの住む豪邸へと足を運ぶ。
そう―――彼女の幼なじみは、半年前、やっと帰って来たのだった。
江戸川コナンが消えてから半年―――それは、工藤新一が帰って来てから半年経ったという事を表している。
結局、誰にも言わず、誰にも言えなかった。
帰ってすぐに叩き潰した組織。警察と協力しながら、追い詰めて。冷酷な氷の雷を振り下ろすかのように、遠慮することなく、無慈悲にその組織を切り捨てて見せた。
…尤も、其の組織のやってきたことを思い、犠牲者の数を考えればさほど冷酷なことでもなく、世間は帰ってきた名探偵に対して最大級の賛辞を送ってみせた。
マスコミは連日騒いで彼のインタビューを行い、テレビに呼び、新聞に載せる。
友人知人は騒ぎ立てるし、知らぬ友人がいつのまにか増えていた。
周りは急激に騒がしくなっていた。世の中は、英雄に飢えていたのかもしれない。あっという間に祭り上げると、誰もが工藤新一の名を喜んで迎えた。―――無論、もろ手を挙げることの無い人間も存在はしていたが。
そんな忙しい日々も、四ヶ月を過ぎる頃になると次第に収まりを見せ、半年を過ぎた頃にはすっかり収束していた。テレビに呼ばれる回数も減り、何処に行くにも付いて来たマスコミの人間たちもすっかり消え、新一の周りはすっかりと物寂しくなっていた。
無論、新一自身は静かになったとそれを喜んでいたのだが。
そんな、とある穏やかな日。
収束したとは言え、テレビ局の人間は英雄好きだった。この日も新一をゲストとして招き、それまで既に三回も断っていた新一は仕方なしにテレビ局へ参上した。
内容は、過去に迷宮入りした幾つかの事件を洗い直してみるという、まあ多々ある類いの番組だったりする。幾度も出そうになる欠伸をぐっと堪えて収録を終え、局を出た頃には二十三時を当に回っていた。空には月まで昇っている。
「やれやれ…」
ため息を抑えられない。もはや馬鹿馬鹿しくてテレビなどどうでも良くなっていたが、あまり疎かにも出来なかった。自分の自己顕示欲の強さには、少々呆れ返りもする。
このまままっすぐに進めば、すぐにも環状線の駅が見えてくるだろう。新一はぼんやりと分かれ道に佇むと、駅とは少々違う方向に向かって歩き始めた。
林立する高層ビル。「都会の森」とでも呼びたくなるこの風景は、どこか新一の心をくすぐった。
壁面のほとんどが強化ガラスで飾られたビルは、辺りをぼんやりと映し出している。まだ残っている人がいるのだろうか、その風景は所々明かりで遮られていた。
「………」
こんなビルを見上げていると、あの白い影が脳裏を過ぎる。
連想ゲームでもしているかのようで、新一は少し自分が可笑しくなった。
†
工藤新一が江戸川コナンだった最後の月。組織の情報収集も既に大詰めで、平次もコナンもバタバタと忙しかった。姿を取り戻せるかどうかの瀬戸際―――そのギリギリの攻防で、とある驚くべき人物が仲間に加わっていた。
「名探偵、ほら」
「お…おぅ」
バサリ、と落ちてきた紙束を受け止めて、コナンは些か困惑気味に協力者を見上げた。
真白な姿をした、尊ぶべき犯罪者……怪盗キッド。
彼が協力を申し出てきた時、如何なコナンといえども目を丸くしたものだ。思わず二の句が告げないくらいには驚いた事を、ありありと覚えている。
「なぁ、キッド」
「うん?」
「もう何回も聞いてんだけど…なんで協力なんか思い付いたんだ?」
実質、聞くのは五回目である。
「…名探偵が好きだからってんじゃダメか」
「ダメだろ」
「じゃあ愛してるからに格上げしてやるから」
「同じだろうが!」
うがぁ、と睨み上げて見せれば、怪盗は困ったようにこちらを見下ろしていた。
「毎回同じ答えばっかり聞いてられっか!」
「じゃあ聞かなければいいじゃないか」
さらりと返されて、一瞬言葉を失った。
「そうじゃなくて……オメーの本心を聞きてーんだよ。なんかあるんだろ、わざわざオレと組もうと思った、目的ってのが」
鋭い眼で睨み上げても、怪盗の顔はどこまでも涼やかだった。まるっきり、動揺する素振りだって見せてはくれない。
「…本当にキミをアイシテイルからさ、名探偵」
そう言って跪くと、コナンの左手に軽くキスを落としてみせる。
「やめろ気持ちわりぃ」
「おや、それは哀しい一言」
寂しそうな顔と演技がかった口調で言われたそれは、明らかに信用できず、コナンはジト目を返した。
「本気には聞こえねぇし。そんなギラッギラした目で、言う台詞でもねぇだろ?」
あきれたようにコナンが返してやると、キッドはふっと笑って立ち上がった。
「だから探偵は嫌いだ」
「そりゃあ、有り難うよ」
スゥと少し嫌な風が吹くのは何故だろうか。コナンは先ほど貰った資料を手に、キッドから離れた椅子に腰を下ろした。
そのままキッドを放って資料に熱中し始めたコナンを、怪盗は目を細めて見つめていた。
「なぁ、名探偵」
「……ん、なんだよ」
おざなりな答えに苦笑する。
「たくさんの人たちを犠牲にして命より大切な人を守るのと、命より大切な人間を犠牲にして世を平和に導く事と―――お前なら、どちらを取る?」
「………え?」
哀しそうな目をして、だが微笑んでいる真っ白な怪盗。酷く遠く感じた彼は、コナンが瞬きをした次の瞬間、姿も形もなくなっていた。
「…キッド!?」
慌てて窓の外を見回してみても、彼の姿は何処にも無かった。
†
思えばあの後、組織を潰した直後から、キッドの姿を見たものが無い。
そう、新一が戻ってから半年、まるっきり。
「キッド……」
ポツリと流れ出てしまった単語が、ビルに響いて森に消える。
命よりも大切な人と、世の中と。
あの時は考える間も答える暇もなかった。
「…オレはそれでも、両方取りたい…」
どちらかと言われても選べない。結果的に両方失ってしまうとしたら、それはオレ自身が悪いのだと新一はぼんやり思った。
「だが、それは傲慢すぎやしないか?」
「…!」
唐突に振ってきた声に、新一はびくりと身を竦めた。周囲に人の気配は感じられない。一体何処から聞こえたのかとあたりを見回し、不意に月影に気付いた。
ビルの谷間にあった公園の、高い高い時計柱の上。
ふわりとマントをなびかせて、彼はそこで微笑っていた。
「キッ…ド……」
「おやおや、声を詰まらせるほど、私に会えたのが感激ですか?」
丸い時計台の上に腰を下ろし、左膝を軽く抱えたラフなポーズで彼は新一を見下ろしている。
「なかなか挨拶に来れませんでしたよ、貴方の周りは煩過ぎて」
「お前、生きて…」
「私が死ぬとお思いで?」
立ち上がり、演技がかったポーズでそう言って見せた彼は、楽しげに一礼して見せた。
「この通り、死ぬことも出来ずに生き恥を曝して居りますとも」
奇術師というより道化師のように軽い動作で動く彼に、新一はようやく我を取り戻すと、自分の目の前を指差した。
「…はい?」
「来い!」
「……名探偵、私は犬になった覚えが無いのですが…」
「何でもいいから、降りて来い!」
ビシリ、と指差され、苦笑気味に怪盗は身軽な動作で時計台を降りた。
だが、新一の前までは近寄ってこない。
「…なんで今まで出てこなかった!」
「……先ほど言ったばかりですのに…。貴方の周りが騒がしかったからに他なりません」
「仕事もしなかったじゃないか」
「ええ、そうですね」
手ごたえがない。風を受け流す柳のように、どれだけ言ってもまるっきり効果がなさそうだった。
「何か…遭ったのかと」
「おや、名探偵がこの私めの心配を? それはそれは、ありがたくも光栄でございます」
「ふざけるな!」
一括されて、キッドは小さく苦笑した。
「オレは本気で…」
「…………」
小さく震える拳を取ると、うつむいた頭をくるりと撫でやり、怪盗は笑う。
「ご心配、痛み入ります、名探偵」
「…………」
言おうとして、諦めた。
彼はこうして、のらりくらりと明確な意見を避けるかも知れないからだ。
真実が、酷くわかりにくい。
「理由を、捜していたんだ」
その言葉は小さかった。ふと流れ出た言葉を思い返して笑うと、怪盗は顔を挙げた探偵の顔を見て、僅かに距離を取った。
「俺のレーゾンデートルを、捜していただけの話なんだ」
「存在理由を…?」
笑って頷いた。
「一度、失っちまったからな。怒りも、恨みも、妬みも。どれだけ強い力を持とうと、それらは人を不幸にする。決して幸せにすることは無い。俺の根本的な原動力は、長らく怒りと悲しみだった。だから俺は俺を失った」
「…何の話だ?」
「……さあ、何の話でしょう?」
又もにこやかに交わされてしまった、と新一はため息をついた。
だが、少しずつ…少しずつ真実が明らかにされている気がしてならない。
「そんで、復活できたんだな?」
「ええ、そうですね」
「…もう消えないのか?」
「ええ、今は私の存在理由が違いますから」
「今は…?」
ふ、と少しだけ遠かった距離が、一気に近付いた。
「貴方が、私の存在理由です、名探偵」
唇に、あんまり感じたことの無い柔らかな感触。触れる吐息。
一気に全身がゾワリとする。
「……き、きき、キッドォォォォ」
「おやおや、そんなに照れなくても宜しいでしょう? アイシテマスよ、名探偵」
「オレは照れてんじゃねェ、気持ち悪ィんだよっ!」
「またまた」
蹴り飛ばそうと向かってきた新一の右足を軽く蹴って、キッドは再び時計台の上に飛び乗った。
「また会いましょう、私がアイスル名探偵?」
「こんのクソ泥棒、二度と会ってたまっかバーロォ!」
当ててやれと本気で投げた靴が、ポーンと向こう側に落ちた。
靴を取ろうとした一瞬を逃がさず、キッドは消えてしまったらしかった。
「…あんのやろう、ヤり逃げやがった」
目を細めて辺りを見回してみても、あまり意味が無い。
仕方なくため息を吐くと、新一はポケットに手を突っ込んでとぼとぼと歩き始めた。
『アイシテマスよ、名探偵』
「……響きが、いまいち信用出来ねェ。大体、真剣味が足んねェよなぁ」
ぶつくさと文句を言いながら、元来た路へ、新一は戻っていく。
その遥か上方で、白い影は小さく、哀しげな微笑を浮かべていた。
懐にゴソリと手をやると、一枚の写真を取り出す。
そこに写っていたのは、彼より3歳は下だろうか、幼く無邪気な笑みを浮かべた、細身の少女だった。病的に白い。写っている背景の所為もあるだろう。
そして、その少女と写っていたのは、快斗にとって、ある意味最愛の人である父親と、最近顔を知った、少女の祖父らしき老人。
先代キッドである快斗の父親を奪った組織と、アポトキシンを生み出した黒の組織―――その両方を掌握していた男。
それが、その男が、こんなにも優しげな老人だったとは。しかも、父親とこんなに楽しそうに笑い合っているとは。
あのときの絶望感を、快斗は一生忘れられそうに無かった。
†
コナンに協力を申し出る少し前。快斗は―――キッドは、その少女に会いに行っていた。
「誰?」
愛らしい声が、病室に響いていた。彼女は慌てて口を抑えると、今度は小さな声で言った。
「誰? 神様?天使さん?それとも死神さん?」
答えなかった。そのままふわりと窓辺に下りると、庇を利用して顔が見えないように彼女を覗き込む。
「悪魔さん?天使さん?」
「……悪魔、だったらどうするのです?」
脅すような、低い声で言ったつもりだった。だが彼女は、
「悪魔さんだったら、私の魂を差し出してお願い事を叶えてもらうわ」
とニッコリ笑ってのたまった。
キッドがギョッとして言葉を失っていると、彼女は庇から垂れたキッドのマントを掴み、ゆっくりと微笑む。
「ねぇ、アクマさんでもテンシさんでもいいのよ。お願い。私の望みを叶えてくれる?」
願いを叶えて欲しいと思うその純粋さだけが、そこにはぼんやりと溢れていた。その思いを無視することも出来ず、キッドはするりと庇から彼女の前まで降りる。
「…それで?貴方の思う悪魔か死神かに、一体何を頼もうというのです?」
「はい。お祖父様を諌めて頂きたいのです」
凛とした、美しい声だった。
「…貴方の、お祖父さんを…?」
「ええ。
人の命は平等であるという事を。
犠牲の上に成り立つ命が哀しい事を。
彼が傲慢であるのだという事を、
彼に教えて頂きたいのです」
先ほどまでは、まるで夢見る少女のような物言いだった。だが、今の彼女は、まるで人の上に立つべき人間の持つ、力や光、カリスマのような力までも感じることが出来る。
キッドは、いや快斗はゾクリとした。
「私はもう助からないでしょう。どちらにしても二十歳までは生きられない命です。だとしたら、間違いなく祖父より先に逝く身。せめて祖父に判って欲しいのです、私の命も、他人の命も、全ては平等であり、人の命すら犠牲にされても、私は嬉しくないのだと言う事を」
「……貴女は…」
「…ごめんなさい、怪盗キッド。貴方のお父様は、本当に素晴らしい人だったのに…私が、お祖父様を諌めて欲しいとお願いしたばかりに、あんなことに……。その私が貴方に頼むのは可笑しいかもしれません、怪盗キッド。でも、それでも、私は誰かにお祖父様を諌めて欲しいのです」
「……貴方の祖父が、私の父を?」
快斗は冷たい声で言った。氷のような眼で彼女を見つめても、彼女はまっすぐに彼を見返していた。
キッドの面を、もう被れなくなっていた。
「…御約束しましょう。必ず、貴方のお祖父さんを…」
「必要とあらば、殺して下さっても結構です」
優しい声だった。それが、人として死を遂げることを意味する「殺す」でない事に、気付けるのは快斗くらいだったろう。
人の死でなく、心の死であり、人生の死。
「…君は、永久の命が欲しくないの?」
「笑みを忘れて長く生きるくらいでしたら、笑って短く死にたいですわ」
彼女の微笑みは、本当に綺麗だった。
それから、半年が過ぎた。その間に彼女の祖父は警察に叩き込まれ、今世紀最大規模といわれた捕り物調が、幕を下ろした。
時折、快斗はありのままの姿で彼女の病室を訪れては、彼の父がそうしたように手品で彼女を楽しませ、巧みな口調で彼女に時を忘れさせた。
終りは酷くあっけなかった。世間は未だ帰ってきた名探偵に歓喜の声をあげ、テレビが彼の名を叫び続けるその中で、快斗は黙って彼女の顔を見ていた。
最期の台詞は、「じゃ、おやすみなさい」であった。
†
「アイシテル、よ、名探偵」
彼女への思いは、まるで大切な友人への想いで。
彼に対する思いは、あたかも恋人に向ける愛おしみ。
『あら、悪魔さんは彼が好き?』
笑った彼女の言葉が、脳裏にこびり付いている。
「…スキだよ、彼が。―――多分、ね」
愛しいは知っている。
だが、恋しいはまだ知らなかったから。
「終わったんだ、何もかも。ゆっくり知っていけば良いよネ」
小さく笑って、ビルの縁に立ち上がった。もう名探偵の姿は見えない。
「次は、何を、盗もうかな」
空中へダイブしながら、彼は小さく笑った。
もう罪を犯した少女を捜さなくても良い。救い出した姫に月を見せることも。
「暗号考えやすいやつにしよう…」
全ては、名探偵のために。
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