に寄せた心









 パトカーのサイレンが段々遠ざかって行く。
 あたりに人が居ないか確かめてから、新一はドアを開けた。
 屋上に続くその扉は、微かにきしむと侵入者を月明かりで歓迎した。
 その月明かりの下にいるのは―――
「よぉ、名探偵♪」
 ご機嫌な怪盗。
「おせーぞ…どこで道草食ってたんだ?」
「おめーの為に、警察をごまかして来たんだろーが…」
 きゅっと眉を寄せると、新一はツカツカと彼に近付いた。
 柵の向こう側で腰を下ろしている彼は、一見本当に危なっかしい。
 足は宙に伸ばして、ビルの端に腰を下ろしている。
 ギリギリの所まで近付いた新一は、柵に阻まれて仕方なく腰を下ろす。
(危ねーなこいつ…落ちたらどーすんだ、落ちたら!!)
 空駆ける怪盗に向かって、余計なお世話である。
 当の本人はまるで気にする様子もなく、ほろ酔い気分でグラスを傾ける。
 グラスの中身は…アルコールだ。
「ほら、探偵」
 キッドはひょいとグラスを出して見せた。新一には相変わらずどこから出したのかわからないが…。
 透明な液体が、グラスの中で揺れる。
「なんでおめーは日本酒が好きなんだよ…」
 と言いつつ、新一はグラスを受け取った。
 ふんわりと暖かい。
「いや、別にウィスキーとかブランデーとかも好きだぜ? ただ、なんかお前といると日本酒って感じがするんだよなぁ…」
(どーゆー意味だ…)
 オレのどこが日本酒っぽいのかと自分でもよくわからないことを考えてから、新一はグラスを煽った。
 この月夜に現れる怪盗と酒を酌み交わすようになって、どれくらいが経っただろうと、新一は思いをめぐらす。
 大概、柵のあるような屋上を選びんでキッドは新一を待っていた。
 初めは普通に対決をしていた…と、少なくとも新一は思う。
 だが、いつからだか、キッドと新一の間に酒が入り込んできた。
 そう、そこからおかしくなり始めたのだろうが…。
(なんでオレはキッドとコップ酒で一杯やってんだ…?)
 キッドは気分よさげに鼻歌なんぞ歌ったりしていた。
「飲まないのか、探偵」
「…工藤新一って名前があるんだけど、いーかげん覚えてくれたりしねーわけ?」
「名前ね…」
 くすっと声を立てて笑い、キッドは横目で新一を見た。
A rose by any other name would smell as sweet.
「シェークスピアかよ…」
「なんだ、読んだことがあるのか。意外にロマンティックなところもあるんだな。彼女が言うとおり…どんな名で呼ぼうとも、中身が変わるわけじゃないさ」
 眉を寄せて、新一はキッドとの間に隔たりを作る柵を掴んだ。
「呼べよ、キッド!!」
 丈夫な柵は、びくともしない。
 あたかも、彼らの立場を示すかのように…。
「柵の…こっち来いよ、キッド」
「いいよここで…」
「…オレがやなんだよ!」
 声は、主人の思惑を外れて大きく響いた。
「……なにそんな怒ってんだ?」
 キッドはきょとんとして彼を見つめた。
「…怒ってなんかねーけど…」
 新一は小さく呟いてうつむいた。
 隔たり。キッドの前に忽然と存在し、自分を阻む壁。
 それがまるで具現化したかのようで。
「…お前がオレを追いかけてくる限りは…いつか見るかも知れない光景だぜ? こんな風に…柵のこちらとそちらで話をして…酒は飲めないかもしれないけど、お前が勝てば、見れる光景だ」
 グラスを軽く煽り―――キッドのグラスは、いつの間にか変わっている。色を見るに、ウィスキー用のグラスになっているようだ―――彼は笑った。その笑みは、いつものキッドのもの。艶やかに人を魅了するのに、まるで突き放すかのような…絵画のような、冷たい、綺麗な笑い。
 胸が潰れた様な気がして新一は眉を寄せた。
 苦しい。
「…なんでそんな顔をするんだ、探偵。お前が望む姿の一遍が、ここに見えるんだぜ?」
 そんな新一の気持ちを悟っているのか否か、キッドはくすくすと声を立てて笑った。
「オレは…おめーを捕まえたくなんか…ねーよ」
「……はぁ?」
 おかしなモノを見るような顔で、キッドはかの探偵を見上げた。
 が、探偵の顔は至って真剣で。思わず首を傾げる。
「何言ってんだよ、名探偵。捕まえる気がないんだったら、なんで追って来るんだ?」
「それは……」
(逢いたいから……)
 心に浮かんだ素直な言葉をかみ殺し、新一は目を閉じた。
 目を閉じたまま言葉を封じた新一を見てキッドは立ち上がると、柵越しにそっと頬を撫でた。
「キッド…?」
 キッドは微笑を崩さず…言った。
「謎を解き明かすのが探偵。犯罪者を捕まえるのが警察。だが、お前は犯罪を許せぬ名探偵だ。目の前の罪人を、逃がすことはない。お前の赴くままに、素直に捕まえてみればいいだろ?」
 白い罪人は、そう言ってまた笑って見せた。
 微笑んでいるのに、なにか遠い笑い。
「オレは…」
 その罪人を見つめる新一の目は、切ない。
「探偵を泣かせてしまう前に、ドロボウは失礼するとするかな」
 頬に添えていた手をそっと引くと、キッドはビルの端に飛び退いた。
「キッド!」
「また会おう、名探偵。次までには、自らの道を確立させておけよ」
 しなやかな足がビルを蹴ると、白い怪盗はその翼を持って飛び去った。
 後に残ったのは、迷いを抱えた探偵が一人。
「お前を…捕まえたくはないんだ、キッド…」
 未だ彼との間に隔たる柵を握りしめると、新一はひとりごちた。
「だけど…なんて言えば伝わるんだよ…冷たい監獄なんかに、放り込みたくはない…」
 ずるりと座りこむ。コンクリートはひんやりとしていて、触れた部分だけが冷やされていく。
 だが、新一自身の熱は、とれそうにない。
 今も、頬に残された感触が消えない。
「お前が好きだから…そばにいて欲しい、なんて…」
 落ちた滴は、後も残さずにコンクリートが吸い込んだ。












 キッドの予告は続く。
 ある時は静かな美術館に。
 ある時は騒がしいデパートに。
 現場にはファンが付きまとい、警官がたむろしている。
 だが、新一は決してその現場へと赴くことは無かった。
 大概は逃走ルート上に存在する、羽根休め用のビルに向かい、屋上で彼を待った。
 …そう、このあいだまでは。
「…なにやってんだよ、オレ…っ!」
 ぼすんと枕を叩いてみても、溜まった澱が抜けるわけじゃない。
 三ヶ月。あれから、もう三ヶ月が経過してしまった。
 新一の中には、じれったい想いがどんどんと溜まっていく。
(逢いたいのに…)
 枕を抱きしめ、カーテンの隙間から見える月を見つめた。
(キッド…)







 ふぁさ…と、微かな物音がして、カーテンから差し込んでいた月明かりがとぎれた。布のこすれる微かな音。それも、耳をすまさなければ聞こえない。
 影は確かにそこにあるのに、音はまるでしない。
「………!!」
 新一は慌てて窓を開けた。ベランダに続くその窓は、風にカーテンをなびかせると一人の影を部屋へと招き入れた。
 月下の奇術師…怪盗キッドの影を。
「キ…ッド……」
「よぉ、名探偵。ここんとこ、お目見えしねーと思ったら、部屋で寝てたのか?」
 ずかずかと上がり込むと、懐から瓶を出して新一に見せる。
「日本酒がお気に召さないようだったから、ここんとこはウィスキーとかワインとかを持ってってたのに…。家にいるくらいなら、ちゃんと出て来いよな。どうしたかと思ったぜ。ほら、飲むか?」
 ワイングラスを2つ出して振ってみせると、キッドは楽しげに笑った。
 その笑顔を見て、新一は思わず抱きついた。
「お、おい…探偵?どうした?」
 瓶とグラスをあげたまま、キッドは抱きついてきた新一をきょとんと見つめた。
 力を込めて、新一は彼に抱きつく。
「…そんなにワインが好きだったのか?」
 間の抜けた声でそう尋ねる怪盗に、新一は顔を上げた。
 片手でキッドの頭を抱え込む。
「!!」
 かちん、と音がなって、グラスが床に落ちる。その横にワインの瓶が重そうな音を立てて落ちた。
 静寂が闇を支配する。
 先に離れたのは、キッドだった。
 ポーカーフェイスの剥がれ落ちた顔で新一を見ると、乱暴に唇を拭った。
「何を考えているんだ…工藤」
「やっと、名前を呼んだな…」
 新一は微かに笑うと、キッドの手首を掴んだ。
「何を…」
「久しぶりにお前の顔を見て…漸く決心が付いたんだ」
「何の決心だ!?」
 少々混乱に陥っているキッドに、被るペルソナがない。
 本来の彼の表情だと新一が気付くのに、そう時間がかかるわけもなかった。
 ぐっと力を込めて彼の手を掴むと、新一は言った。
「好きだ」
「……はぁ?」
 だらしなく口を開けて、キッドはそれだけ言った。開けたままの口は、その驚きに閉ざされることもなくぽかんと開いている。
「いきなり何を言って…」
「もう…うんざりなんだよ。おめーが誰かに捕まる事を心配すんのも、思いを告げられなくてうじうじすんのも!」
「ちょ、ちょっと待てよ工藤…」
「もっと名前を呼んで欲しい…もっとそばにいてほしい。ずっとそう、思ってたんだ」
 そう言って新一は抱きしめ、もう一度キッドの唇に口付けた。
 驚くキッドを余所目に、自分の舌をするりと侵入させる。
「…ん、ぐっ……」
 どんと胸を突いて離れようとするキッドを、新一は逃そうとはしなかった。
 腕を壁に封じて、混乱するキッドを見つめる。
「言っただろ、お前。『お前の赴くままに、素直に捕まえてみればいい』って。アレを思い出して…決心するまでに三ヶ月もかかった」
「ありゃ…そーいう意味じゃねーだろ!」
「どういう意味だって良かったんだよ」
 足の間に膝を割り込ませ、新一はキッドに口付ける。
 かみつく様なキスに、唾液が顎を伝った。
 押しつけられた拍子にキッドの頭からシルクハットが脱げ落ち、そのふわりとした髪が外気に触れる。
「も…やめ……っ!」
 キスの合間に告げられる言葉を無視して口付けを続ける新一に業を煮やし、キッドは強行手段に赴いた。
 合気道の要領で新一の腕から逃れると、彼を軽く突き飛ばして飛び退いた。
 浅く息をすると、ベランダへと駆け出した。
 それを見て、新一が後を追う。
 羽根を広げる直前に手を取り、キッドが振り払う。
 その動作が幾度が続き、ベランダの端と端で彼らは見つめ合った。
「キッド……」
「…お前、が、オレに…飢えた男みたいな行為に及ぶとは思ってなかったよ…探偵、くん」
「飢えてんだよ、お前に……。捕まえたい。今はそう思う。絶対に捕まえてみせる。
 ……愛してるんだ、キッド」
「顔も知らないドロボウに、か?馬鹿げてるぜ。第一、可愛い幼なじみがいるんだろう」
 新一の脳裏に、蘭の顔がよぎる。
 その時に抱いた感情に、新一は確信を得た。
「幼なじみは幼なじみ。大切な事には変わりねーが……恋じゃない」
「本気、かよ…」
 おびえを交えた表情で自分を見るキッドに、新一は笑った。
 久しぶりに浮かべる、心からの笑みで。
「本気だぜ。お前を愛してる、キッド」
 そっと近寄る新一に、キッドは身じろぎもしなかった。
「オレが男だと言っても…聞きそうにないな、その顔は」
「お前の性別なんて、どうでも良いよ」
「言うと思ったぜ……」
 後僅かで手が触れる…と言う距離で、キッドはベランダの縁に飛びすさった。
「キッド!」
「…………」
 唇が微かに動いた後、キッドの姿は煙と共にかき消えた。



『また、来る』



 部屋に戻ると、落ちたシルクハットはそのままで。
 新一はそれを拾い上げると、そうっと掻き抱いた。

 愛しい者を、抱くかのように。