手のひらには、小さなカプセル。
赤と透明で出来たそのカプセルは、俺にかけられた魔法を解くための呪文が入っている。
そう。
小さくなってしまった「工藤新一」が、「江戸川コナン」を捨てる為の呪文だ。
元の俺に、戻れる。
このカプセルを飲みさえすれば…。
本当に、小さなカプセル。
戻れるんだ、俺に……「工藤新一」であった俺に。
ずっと望んでいたことだ。「江戸川コナン」になってしまってから、ずっと。
ずっと望んでいた…はずなのに。
何故俺が飲まないのかには、それなりに訳がある。
『コナンくん!』
『コナン!』
さんざん呼ばれた名前。
その名前を捨てる。俺は、「工藤新一」に戻る。
……コナンは?
俺が「工藤新一」に戻った瞬間、「江戸川コナン」はどこへ行くんだろう…。
今は、居ない……「工藤新一」。
なに考えてんだ、俺…。
「江戸川コナン」は、「工藤新一」じゃねーか。
なにも違わない。イコールで結ばれた関係。
…果たして、本当にそうなのか?
「江戸川コナン」は、その名を呼ばれる度に新たな命を育んでいったんじゃないのか?
実在するんじゃないのか、「江戸川コナン」は…。
手のひらには、小さなカプセル。
赤と透明で出来たそのカプセルには…「江戸川コナン」を殺すための呪文が隠されている。
小学校に通いながら、その存在を確立させた、幼い少年を殺す為の呪文が。
本当に良いのか?
俺は、この薬を飲んでいいのか……?
「工藤くん」
声をかけられて、俺ははっとした。
水の入ったコップを片手に、固まってしまった俺を見て、灰原が冷ややかに笑う。
「まだ、飲んでなかったのね」
「…………」
答えるすべを見つけられない。
飲んでない…いや、飲めない俺。
「テストは完璧だったわ。今度は戻ったりしないわよ。…それとも、何か不満が?」
「不満じゃ……」
言葉に詰まった。不満なんかじゃない。なぜなら…
「なら、不安でもあるのかしら?やりのこしたこととか、心残りとか…」
俺は…答えられなかった。
不安。不安。そうなのかもしれない。
「それとも…怖い?」
「っ………」
びくりと身体をすくませた俺に、灰原はため息を付いた。
俺は…動けない。
怖い。その通りかもしれない。俺は怖がっている。
だが、何を…?
「考えは、口にしないと他人には伝わらないものよ。…何が不安なの、工藤くん?」
「俺…は……」
コップの水が静かに波紋を作る。
それは、やがて波へと変わっていった。
今にもそれを落としてしまいそうな、俺の手。
「俺は…『江戸川コナン』は、どこに行くんだ……? 『工藤新一』が戻ってきて、『江戸川コナン』は消えて…俺は誰だ?『工藤新一』なのか?それとも、『江戸川コナン』なのか?
…教えてくれ、灰原。『工藤新一』は夢だけの存在じゃないよな?実在するだろう?俺は…『江戸川コナン』じゃないよな…『工藤新一』で、合ってるんだろ?」
不安は恐れを生み、恐れは恐怖となって俺に襲いかかってきた。
これを飲んで『工藤新一』にならなかった場合…。
これを飲んで『工藤新一』になってしまった場合…。
どちらも、恐怖。
今までのことが、『江戸川コナン』の夢でだったのか?
これから、『江戸川コナン』が夢になるのか?
俺は、どっちなんだ。
俺は……誰だ?
「…しっかりしなさい、工藤くん。あなたらしくないわよ。
江戸川コナンは泡沫……決して存在していたわけではないわ。工藤新一が、『江戸川コナン』と言う殻を被っていた…それだけよ」
「殻…夢じゃなかったのか…?」
『江戸川コナン』は殻…?なら、そのなかに『工藤新一』が入っているのか?
なら、俺は『工藤新一』なのか?
灰原は俺を見て、苦笑するかのように笑った。
「工藤くんは…『江戸川くん』であった期間が長すぎたのね。気持ちは……わかるわ」
目を伏せて呟くように言った灰原の台詞は、するりと俺の頭に入ってきた。
「でも、名前は変わっても決して中身までが変わるわけじゃないわ。
私は『灰原哀』として生活していても所詮『宮野志保』であることを止められない。
それと同じように、『江戸川コナン』であっても、『工藤新一』でしかいられない筈なのよ、あなたは…」
「なら、『江戸川コナン』はどこへ行くんだ?
今まで確かに存在していた筈の、『江戸川コナン』は…」
そう、それが一番引っかかっていたんだ。
『江戸川コナン』は確かに存在していた。
毛利家に居候していたコナン。
事件現場が好きだったコナン。
帝丹小学校の1年生だったコナン。
少年探偵団に居たコナン…。
あのコナンは、どこへ言ってしまうんだろう…。
「泡沫に戻るのよ」
灰原は言った。
泡沫?すべては、気泡に化してしまうと?
「『灰原哀』も、『江戸川コナン』も…すべては夢の存在。
夢が覚めれば消えてしまうわ。水に浮かぶ、泡のようにね…」
消える。コナンが。
そうして夢へと消えて、コナンはどうなるんだろう。
記憶の中にしか存在しない、『江戸川コナン』。
「でも、みんなは覚えているわ。
この街に『江戸川コナン』がいたことを。
そして、待っているはずよ。
この街に、『工藤新一』が帰って来ることを。
…待つ人の居ない、私とは違うわ」
……そうだ。灰原のお姉さん…宮野明美さんは、もういない。
俺は事件に関わっていながら、彼女を救うことができなかった。
月影島のときのように…。
「みんな…覚えてんのかな。コナンのこと…さ」
「覚えてるでしょうね。そして、いつかは忘れてしまう。時の流れは無情だわ」
「…本当に居た筈の存在なのに、消されちまうんだな。『俺』のせいで…」
「…1から0を引いたところで、答えは1よ。決して、2じゃなかった。
江戸川コナンは、あなた自身ですもの。
…安心してお飲みなさい。今度は、大丈夫よ」
灰原はそう言って、部屋から出ていってしまった。
そう。『江戸川コナン』は『工藤新一』で、『工藤新一』は『江戸川コナン』なんだ。
表と裏。それは2つではなく、それは1でしかない存在。
どちらも俺自身。
コナンは消えるんじゃない。俺に還るだけなんだ。
手のひらには、小さなカプセル。
赤と透明で出来たそれを、俺は水で流し込んだ。
喉を滑り落ちる呪文。『江戸川コナン』の顔から、『工藤新一』の顔へと戻るための大切な呪文だ。
そして…。
愛しい女性を、もう決して泣かせない為の呪文。
蘭……。
今度こそ、言ってみせる。あのとき言えなかった…ずっと言えなかった大切な言葉を。
もう、泣き顔を見たくはないから。
目覚めれば、視界が変わっていた。
『江戸川コナン』の残骸が、俺のそばに散らばっている。俺は何も着ていなかった。
綺麗に畳んである俺の服を一枚ずつ丁寧に着て、俺は『工藤新一』になった。
ゆっくり眠れよ、コナン。
もうお前と逢うことはないだろう。
鏡を覗いても、そこに居るのは俺…新一だ。
2度とは逢うことのない、俺の顔。
だが、俺は決して忘れはしない。
この街には、『江戸川コナン』と言う、小さな探偵が居た。
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